猫ロケット

夜空の星はねこの輝き。アニメ感想とか書きます。

いいじゃん、さやかちゃん助けようぜ

「全ての魔女を生まれる前に消し去りたい」

 

希望から生まれた魔法少女が、絶望を撒き散らす魔女になる定め。

 

長い歴史上の過去で、果てない未来で、数多の並行世界で、多くの魔法少女がその運命に呑み込まれていった。その犠牲者の中にはまどかの親友のさやかもいた。絶望に沈んださやかは魔女を生み出し、滅びるのだ。

 

まどかはそんな理不尽な運命を乗り越えるために願う。「全ての魔女を生まれる前に消し去りたい」

 

しかし魔女を消し去ったところで、魔法少女が死ななくなるわけではない。魔女を生まなくなるだけだ。魔法少女が力尽きたという事実そのものを曲げることはできない。だから、さやかは魔女を生んでも生まなくても、もはやこの世界に留まることはできなかった。

 

そのさやかを救う手立てはただ一つ。何もかもなかったことにすることだ。けれどそれは、さやかが命を賭けてでも叶えたかった想いを否定してしまうこと。それはきっとさやかの望む世界ではない――まどかはそう語り、さやかの選択がどんな未来をもたらすのかをさやかに見届けさせ、消えゆくさやかを見守る。

 

まどかの言ってることはすごく筋が通ってる。彼女の論理は、マミの死を、さやかの痛みを、杏子の祈りを、ほむらの告白を目の当たりにして、魔法少女の運命について思考に思考を思考を重ねた結果がっちりと揺るぎない。でも、それってあまりにも公正すぎるし、潔癖な面もあるんじゃないだろうか。

 

いいじゃん、さやかちゃん助けようぜ、と思っちゃうんだよね。

 

望まない世界でも生きてるほうがいいよ、友達だから生きててほしい。まどかはそう言ってもよかったはずだし、それを実現する力だって持っていた。友達に、そこにいて欲しいと思うのは悪いことじゃないよ。

じゃあまどかはどうするべきだったのか。私は「魔女を全て消して、さやかちゃんを生き返らせて、マミさんには予備の頭を、杏子ちゃんにはおやつ一年分、ほむらちゃんには何か粗品をあげて、それで自分自身は何食わぬ顔で今まで通りの生活を送る」が正解だと思う。世界を変える力があるなら、筋なんか通さず都合のいい世界にしちゃえばいい。

筋を通すことは確かに価値あることだけれど、世界を変える力があるなら、もっと自分に都合のいい世界を願えばいいよ、まどか。

 

つまり円環の理さんは意識高すぎ! 泣いてるマミさんもいるんですよ!

 

ってことで、まどかの選択は必ずしも「正しい」解決ではないと思うんだよな。

 

そもそも円環の理で魔法少女が幸せになったかというと、そうとも言い切れない。魔法少女が戦いの運命にあることは変わらないし、いつか死ぬことにも変わりはない。死んだ後のことなど知らないという魔法少女だって少なくはないだろう。そして何よりほむら以外の魔法少女は改変前の世界を知らないのだから、円環の理の意義など想像のしようもない。まどかの願いは、「魔法少女」という総体に対するものであって、生きている一人ひとりの魔法少女にはほぼ何も関与していないのだ。これは彼女が最後まで「魔法少女」としての当事者ではなく観察者の立場を貫いたからなのだろうけど。

 

だから「円環の理」は、まどかの我侭とその我侭を了解するほむら、あくまで二人の約束事だ。まどかの願いは、言ってしまえばただの独善に過ぎない。

そしてやっぱりほむらの願いも独善だ。彼女の願いはまどかを救うことではなく「まどかを守る自分になること」だったのだから。

 

でも私は、ほむらの独善とまどかの独善が一度だけ交錯する瞬間と、その証が残るというところがとても好きだ。円環の理は契約によって成された奇跡だけれど、リボンは魔法ではない本物の奇跡だからだ。まどかのリボンを身に付けるほむらの姿は美しい。この世界には信じるに足る希望がある。そう信じさせてくれる。

 

まどか☆マギカは「間違う」物語なんだと思う。まどかの選択は必ずしも正解じゃない。そして他の誰もが同じように間違っている。間違いながら前に進んでいる。「正しすぎるその子の分まで、誰かが間違えてあげればいい」とはまどかの母が語った言葉だが、正しすぎるまどかの分を間違えてあげる役割は、次はほむらなのだろう。

 

というわけで以上、新編公開前の最後のまどマギ感想文でした。おいおいおい、ついにこの日が来たか……